テロについて思うこと

テロについてまず思うことは、テロとは、
いったいなんであるかということだ。
まずは辞典で引いてみた。
テロリズム
「一定の政治目的を実現するために暗殺・暴行などの手段を行使することを認める主義、およびそれに基づく暴力の行使。テロ。」
だそうだ。
何ともぴんとこない。
確かにそうなのだろうが、なんだか今巻き起こっているものとは一致しないような気がする。
なぜ暴力に訴えてしまうのだろう。
ビデオのETAもそうだし、アルカイダもそう。
一緒にしてはいけないのだろうけれどPLOもそうだ。
自爆テロ、テロ、暗殺などなど。
彼らはなぜこんな手段に訴えなければいけないのだろう。
ジョージ・W・ブッシュはテロリスト=悪だと決め付けるし、
世の中はそういう流れだということは私も認めざるを得ないと思う。
でも、誰もテロはなぜ起きるのかを考えていない。
考えることを避けている気がしてならないのだ。




テロについては以下のように思う。
私はナチスの支配化の元、抵抗を続けたレジスタンスも、
その時代ではテロリストだったと思う。
あちらこちらで抵抗されるのだから、ナチスの側からすれば
それはテロに他ならない。
結局その後、ナチスが敗北したからこそ、
彼らはレジスタンスと呼ばれているだけなのだ。
私は別にナチスが正しかったとか、
被害者だったなどといいたいのではない。
ものの見方を変えればそうなるといっているだけだ。
アメリカが敗北すれば、イラクで活動している“テロリスト”たちも
“解放者”として歴史の教科書に載るだろう。
もちろん、テロはなくなればいいと思う。
しかし、テロは絶対にこの世から消えないと私は思う。
テロは誰でもできるものだからだ。
明日、私が首相官邸に車で突入し火でもつければ、
これは完全なテロ行為だといわれるだろう。
テロリストは誰でもなれるからだ。
兵士には訓練を受けなければなれない。
けれどテロリストは誰でもなることができるから。
最後の手段として、誰がテロ行為を起こさないといえるのだろうか。
そこから憎しみが生まれるという大きな代償を払ったとしてもだ。


だいたい、私には判断がついていない。
特にパレスチナイスラエルについては特にそうだ。
ユダヤ人は遠い昔、紀元前にパレスチナを追われ国を持たない民となった。その後土地に住みついたのがパレスチナ人。
ユダヤ人はヨーロッパやアメリカの経済界で多大な影響力を持ち、
それらを盾に帰還。国を作るという。イギリスは二枚舌外交を行い、完全に二民族間はこじれる。
そして、大国はイスラエルについた。
こうなったとき、どんなに外側に訴えても弱者に立たされたものの
声が届かないとしたら・・・。
その叫びの代わりが爆弾テロ、自爆テロだったとしたら。
それを何の背景もわからず非難する資格が私たちにあるだろうか。



テロリストが、お定まりの勧善懲悪の中の悪であってくれたら、
私は声高に非難する。
たぶん世界中がテロを追放しようと立ち上がるだろう。
でも、打倒テロを目指すアメリカ合衆国に追従する国は多くはない。
みんな迷っているからだ。
本当にアメリカが正しいのなら、フランスもドイツも協力するだろう。
しかし、立ち上がらない国、撤退していく国は後を絶たない。
それはみな不安になったからだ。
自分たちが背負っているものが正しいのかわからなくなったから。
正しいと思っていた先が混乱と絶望が渦巻いた国をひとつ作ってしまったのならなおのことだ。
何度もいうが、わたしにはわからない。
テロは人の命を奪うものであってほしくないものだと思う。
しかし、それを非難することができるのかどうかわからない。
わからないことだらけのまま、ニュースを見ている日々だ。


ただ、確実にいえることはテロが起きると“痛い”ということだ。
ある日突然、そこで生を断ち切られてしまうのを想像するだけで悲しい。
残された周囲の人々の嘆きや、死ぬことはなかったとしても、
これからの生活に大きな影響を受けてしまう人だって大勢いたのだ。
だから、“痛い”という想いだけは忘れないでいようと思う。
世界中の人がそれをわかってくれればいい。
戦争もテロも“痛い”ことだと。
体だけでなく、心も“痛い”ということを忘れないでほしい。
この“痛い”という思いはテロを起こす側と起こされる側と
唯一の共通の感情であるからだ。
起こす側も自爆テロであったら確実に命を落とす。
残された家族も失う悲しみを同じように味わう。
それをしっかり覚えこんで、飲み込んでから、
初めてテロをどうするか考えるべきだと私は思う。



これは遠く離れた安全な場所にいて、
なおかついつでも掃討作戦や戦争ができる地位にいる人が
肝に銘じるべきことだ。
テロは“痛い”。
なぜ“痛い”ことを覚悟の上で起こすのか、
そこまでして訴えたいことは何か。
その前に自分にできることはなかったのか。
今後防ぐためにはどうしたらいいのか。
それぐらいのことを考えた上でテロ対策をしてほしい。



でも、ここまで書きながらもまだ迷う。
だいたい、民族、国、宗教がまったく違う中意見は一致するのだろうか。
お互いが目指す平和とは重なるのだろうか。
すべてが円満に解決することなどないのではないか。
結局、私にはわからないままだ。
だからこそ、せめて“痛い”という感情を忘れないように
と思うのかもしれない。