GHOST IN THE SHELL

映画見ました。音楽や街の雰囲気が全く違うと、不思議ですね。荒巻さんが課長ではなく部長で、しかも声が違う。
後は細々とした差異があるぐらいか。


草薙が少し線の細いイメージがあるんですよね。戦ったり指示を出したりするシーンが少ないからかな。
己の内側へのダイブ。そんなイメージです。
バトーはちっとも変わりません。トグサだけが、ちょっと新入りの癖にタメ語か〜ぐらいのもんで。
イシカワさん以外は、後は誰も出ないって、本当にメンバー誰も出ないじゃんという寂しさ。


しかし、見たおかげでS.A.Cと比較する事ができたのがよかった。あくまで私見だが。
どちらも「ネットにつながり、身体がサイボーグ化された人間の"個"とはなんぞや」という事なんだと思うけど、
描いていること、結末に違いがあるってこと。
まずは「個」の違い。

G.I.S→1人の人間の内側としての個
S.A.C→大衆化されていく中の個

もっとも、映画とテレビという事で描く手法が違うのかもしれないし、S.A.Cの1stの方で監督が何をしたかったのか〜
とかのインタビューも既に記憶がないので・・・。そんなの説明されたことなのかもしれないけど。
だとすると・・結構恥ずかしいなぁ(^_^;)


次は草薙の出した道

G.I.S→人形使いとの融合により、ネットと一体化する・・というところまではいかないのだろうけど、個を超越した
S.A.C→クゼと共にネットに行くのを拒否し、現在の個にとどまる。

しっかし、2ndGIGのラストはわからないよなぁ・・・。
私はクゼが、草薙を通じてネットに自分のゴーストを送り込んだ、という解釈をしているわけだけど、
人形使いと同様にクゼが草薙と融合した・・というのは・・その後の描写からして微妙だけど、否定も出来ない。
タチコマが自らのファイルをネットに流したように、クゼもそうした可能性はある。


そして、人形使いとクゼの理想は同じという事は今日わかった。
しかし・・その理想はまだよく把握できていない。残念な事に。
ネットとゴーストの融合。新しい生命体となること。そんなことかな。
人形使いとクゼは同じ理想を全く逆からたどっている、という言い方も出来るはず。


後、「ゴースト」という存在。これは、S.A.Cに限る話だが、ゴーストが個と断定するならば

人間→ゴーストを持っており、ネットにつながることにより各人の差異が埋まり、大衆化する
A.I(タチコマ)→ゴーストを持っておらず、ネットにつながることにより各人の差異が広まり、個性を持つ

最初から個性を持っているならば、いずれは喪失するということになる。
それは進化なのか、退化なのか・・・。
それはわからないが・・。